『これも修行のうち。』要約#04 感情を客観的に眺める

瞑想

反応しない練習の実践編『これも修行のうち。

前回の記事からの続きです。

今回はまず、さまざまな「感覚のプチ修行」をまとめておきます。

感覚のプチ修行集

通勤途中などの、ちょっとしたスキマ時間がプチ修行の場となりえます。

電車の中ではスマホを触るのが定番になっている人も多いかもしれませんが、そうすると心がいろいろな反応をするため休まりません。

少しの時間でもいいので身体感覚に意識を向ければ心がリセットされます。

家事や雑事などの作業でも「感覚を意識」の発想さえあれば、心のクリーニングになります。

これまで「生産性が低い」とか思っていたことも、心を磨く修行に変化するわけです。

温度変化に気づくことでも心の浄化は起こります。

寒い時期でも暑い時期でも、外に出たり入ったりしたときに温度が変わるのを本気で感じ取りましょう。

また、銭湯に行って普段より少し熱めのお風呂に入ることで体も心も浄化されます。

感情は三種類

ここからは「感情」についての話になります。

仏教では感情を「快・ニュートラル・不快」の三種類に大別します。

「快」は嬉しいとか楽しいとか好きなどの反応で、「不快」は苦しいとか嫌いなどの反応。

そして「ニュートラル」は快でも不快でもない、感情のない状態です。

一般的に人は「快」ばかり追求し、「ニュートラル」に対しては退屈だとかつまらないなどと考えています。

しかしこのような常識から目を醒まし、まず現実を正しく理解する必要があるのです。

ニュートラルな状態を基本に

快ばかり追いかけると、その反動で不快に振り回されることになります。

これは心を理解していないために起こる現象で、あらゆる物事に快か不快かの二択で反応する習慣がついてしまっている。

反復横跳びにたとえると中間地点に着地せず、両端を交互に跳ぶというハードな動きをしてしまっているのです。

仏教が望ましいとする心の習慣は、快でも不快でもないニュートラルな状態を基本にすえるということ。

いつでもニュートラルな状態に戻ることを意識すれば落ち着きを取り戻せます。

安らぎや穏やかさ、優しさ、静かな集中力などは、ニュートラルな精神状態から生まれるのです。

快楽を求めすぎないように

「快」は取り扱いに注意すべき感情だと理解しておきましょう。

仏教的には「欲求を満たして満足する快」と「心に苦しみがない、心地よさとしての快」があり、前者の快に注意が必要です。

心は無常なので、どんな快も長続きせず、欲を満たせば次の欲というように数珠つなぎに出てくるからです。

なのでむやみに快楽を求めすぎないほうがいいと思います。

不快と上手に向き合う

不快な反応の代表、「怒り」についての理解も大切です。

「怒ってはいけない」「怒らないことが美徳」などとはよく聞きますが、これは現実的な発想とは言えません。

自分の心と他人の心は別物なので、そこの温度差などから怒りなどの感情が生まれるのは仕方のないことです。

なので怒らないのではなく、怒りの感情と向き合う方法を学ぶ必要があるのです。

感情についてまとめると「ニュートラルが基本」「快はおまけ」「不快はどうしても感じるが、感じたら上手に解消する」ということになります。

「と言葉」をつけ足す

ニュートラルを基本にしつつも、人と関わったら心が反応するのは避けられません。

大切なのは反応しすぎないことと、不快な感情に囚われないことです。

そのためのコツは、生まれた感情を外から客観的に眺めること。

練習方法として「気づきの言葉」をつけ足すというものがあり、たとえば何か反応してしまったら、

「……と、私は怒りを感じている」

……と、いうように「と言葉」をつけ足すのです。

言い方は自分で工夫すればいいし、これだけで反応を客観視できるようになります。

この「と言葉」によって意識が気づきに使われ、怒りに使われる意識量がそのぶん減る仕組みです。

相手をただ理解する

意識を気づきに使うという発想は、人と関わる前の準備にもなります。

相手と向き合う場面で、あらかじめ「自分の反応を客観的に観察しよう」という前提に自分を置くのです。

そのためには「感覚のプチ修行」で気づきの能力を鍛えることが欠かせません。

また、意識を気づきに使えば相手の理解に徹することができます。

相手の言うことを判断せず、ニュートラルな心で理解することが可能になります。

「ただ理解する」のは難しいものの、だからこそ練習によって上達していきます。

自分の心に起こる「判断」や「妄想」に気づく練習を積んでいきましょう。

記事05に続く

草薙龍瞬著『これも修行のうち。実践!あらゆる悩みに反応しない生活

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