古賀史健著『文章講義』要約#13 どんな文章がなぜ嫌いなのか

読書

前回の記事からの続きです。

引き続き「読者の椅子に座る」がテーマです。

ところで、文章の上達法として昔からよく言われているのが「手当たり次第に本を読め!」ということ。

著者の古賀氏は、読書にあたってもうひとつの条件を付け加えます。

それは、思いっきり好き嫌いに「とらわれること」です。

特に「この文章、なんか嫌いだな」といった、自分の感情に向き合うことが大切なのです。

なお記事の後半では、読者を引き込む方法について説明していきます。

「嫌い」の感情に注目する

いろんな本を読み、自分の好き嫌いをはっきりさせることが大事だと述べました。

そうすることで、書き手としての自分がどんな文章を書きたいのか、見えてくるからです。

「とある文豪の書いた、よい文章」などという知識は、自分が好きか嫌いかを判断する上で邪魔になる場合もあります。

絵や音楽のほうが心あたりがあるかもしれません。

自分の文章に対し「どうあるべきか」よりも「どうありたいか」という気持ちで向き合いましょう。

ちなみに「好き」よりも「嫌い」の感情のほうが、自分で理由を説明しやすいものです。

なぜ嫌いなのか、さらに踏み込む

とある文章に嫌悪感を覚え、その理由を掘り下げていくと「上から目線に思えるから」「自分の意見をぼかし、逃げている感じだから」といったことが挙がるかもしれません。

また「決めつけが多いから」「表現がまわりくどいから」という理由も出てくるでしょう。

そこで終わらず、たとえば「なぜ自分は決めつけが多いのがイヤなのか」と、もう一歩踏み込むことが大切です。

著者の場合は、読者に対して妙にへりくだっている文章が嫌いとのこと。

著者なりにその理由を考えると、そこに読者をバカにした態度が見えてしまうからであり、「自分は書き手として、読者に誠実でありたい」ということに気づいたのでした。

このように「嫌い」を掘り下げることで、最終的に自分がどうありたいのかという、潜在的な欲求が明らかになるのです。

書き手と読者の間にある温度差

仮に僕がこの記事をとても真剣に書いているとします(実際、真剣なのですが)。

しかし、読者がこの文章を読むときの姿勢や態度はどんなものでしょうか。

書き手が集中して書いたからといって、読者もそのまま集中して読んでくれると思ってはいけません。

読者は期待しているほど熟読してくれないので、そこに書き手との認識のギャップが生まれるわけです。

だから「読み落とし」や「誤読」などが発生するのですが、安易に「ちゃんと読んでくれない読者が悪い」と責めるのは間違いです。

厳しい言い方をすると、伝わるように書けなかった書き手の責任になります。

読み落としや誤読を避けるために、読者の「姿勢」を変え、一心不乱に熟読してもらう必要があります。

では読者の姿勢を変え、こちら側に引き込むために、書き手にできることは何でしょうか?

説得するのではなく、納得させる

文章というのは、読者の心を変容させ、動かすことが目的です。

たとえばラブレターの場合、目的は「相手に自分の告白を受け入れてもらうこと」です。

なので文章には「説得」の要素が大切なことがわかりますが、ここで問題なのは読む側が「説得されたい」と思っているかどうかです。

もちろん読者は説得なんてされたくないので、押しつけがましい言い方をされたら必ず反発するものです。

だから反発に耐えうる論理で固める必要があるのですが、説得するとは別の方法もあります。

それが読者を「納得」させるということ。説得が「押し」なら、納得は「引き」です。

わかりやすい例として、歴史の教科書と歴史小説があげられます。

歴史の教科書は一方的に知識を押し付けてくるので「説得」のアプローチといえます。

いっぽう、歴史小説は「物語」という武器を使い、読者をゲームに参加させ、納得させていくわけです。

読者に当事者意識を持たせる

読者が説得に応じない理由は簡単で、「他人事には興味がないから」です。

だとしたら「これは他人事じゃない」と思わせる何かがあればよくて、読者に「当事者意識」を持たせることがカギとなります。

たとえば途上国の貧しい子どもたちのために募金を呼びかけることは、正しいのですが、人は正しいだけでは動かないものです。

一般論だけでは心に響かないので、そこから自分事に変換してくれるような仕掛けが必要になってきます。

先の例でいえば、写真付きの女の子がひとり、難病などの具体的な理由でお金を必要としているならば、同世代の子どもをもつ人が共感するはずです。

記事14に続く

20歳の自分に受けさせたい文章講義

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