前回の記事からの続きです。
サティ(気づき・マインドフルネス)を実践していると、自分の人生の課題が見えてくることがあります。
サティを難しいと感じるなら、それだけ執着やわだかまりが残っているということ。
それらを吹っ切るためのコツについてまとめていきます。
体の動きに意識を向ける
すぐ考え込んでしまう人というのは、体の感覚よりも思考にばかり意識を使っています。
思考にとらわれている人は、歩くサティ(歩行瞑想)などをやってみても、
「足の裏の感覚がよくわかんない。上げている、運んでいると思考しているだけの気がする」と言ったりします。
この場合、歩く以上に複雑な動きを、たとえばスポーツ、筋トレ、ヨガなどをやってみることで考えるヒマがなくなり、感覚がわかるようになるかもしれません。
「サティを働かせる」という本質を覚えていれば、いろいろ工夫できるのです。
吹っ切れない思いも妄想だと気づく
過去を吹っ切れていない人たちの不思議な共通点として「座るサティ(呼吸瞑想など)をすると眠くなる」というのがあります。
これは、本質を理解しようとするのを心が拒否し「眠れ」と指令を出すかららしい。
確かに、吹っ切れない思いを直視するのはつらいけれど、その反応の連鎖を卒業しなければ今後も続いてしまいます。
「それが在る」と理解して、認めるというのが正解であり、これ以上の解決策はありません。
心に残っているもののすべては妄想なのだと理解してください。
何度でも何度でも「まだ反応している」「これは妄想だ」「執着という心の状態だ」と思い直すのです。
そうすれば、わだかまりの原因だったものに反応しなくなっていきます。
禅はサティを日常に広げたスタイル
日本の禅は、ブッダのいうサティを日常生活にも落とし込んだスタイルです。
たとえば洗い物をしているときも、水が手に触れる感覚だけに集中することで、心も洗われるわけです。
食べるときもサティを最大限に働かせ、体の動きや思考、感情をラベリングする。
妄想するのではなく、食べるという営みに集中することで心が浄化されます。
意識をどこに使っているかをしっかり自覚するだけでも、かなり明晰な心が手に入るのです。
すべての人に仏性が宿っている
僕たちは、ただ生きるだけでも十分な意味があるはずです。
そんな中でもめざして間違いのない目的というのが「心の苦しみを越える」ことです。
これまで苦しみを越えられなかったのは、方法を知らなかったのもあるでしょう。
まず前提としてほしい心の持ち方は「まだ自分が知らないだけで、方法はあるんだ」ということです。
この前提の上で苦しみのない心をめざしていけば、心は必ずほぐれ、クリアになっていきます。
何かに反応する前の意識は、まだ苦しみもない純粋なエネルギーです。
日本の仏教に「すべての人に仏性が宿っている」という言葉があるように、苦しみのない心境にはみんなが辿りつけるのです。
ブディズムとは、理解する力によって苦しみを越えていく方法です。
これは知識や理屈を増やしたり、何かを信じたりするのではなく、心を鍛えて状態を変えてしまいましょう。
負の連鎖もサティの力で抜け出せる
負の反応の連鎖に囚われている人は大勢いますが、サティの力があればそこから抜け出すことが可能です。
ある50代の女性は、よくわからないことで怒る親の元で幼少期を過ごし、なんでも「きっと自分が悪いんだ」と思う心のクセを持っていました。
この心のクセは、つけ入るスキを他人に与えるので、彼女の周りに身勝手な人が引き寄せられます。
夫だけでなく娘にまでナメられるという状態
でしたが、自分が悪いと思い込んでいるためその関係を抜け出せませんでした。
著者は彼女に以下のようなアドバイスをします。
- 私ってダメですね、という言葉を使わない
- 言ったら「これは心のクセだ」と自覚
- 「私は私を肯定する」と言う
- 「千まで数えながら歩く」を日課にする(千歩禅)
道を見失ったときは正しい方法を思い出す
歩数を数えながら歩く練習は、妄想に流されないよう気をつける必要があるため、ストレスや雑念を洗い流す効果があります。
今の自分のまま、一生を終えていいのか。
それがイヤならまずは歩き続け、心のクセを抜ける時間を重ねていくしかありません。
その50代女性はなんとか千歩禅を続け、少しずつ自分を客観視する力が育ち、新しい人生に踏み出しつつある様子です。
心を洗う道のりは前進ばかりではなく、道を見失ったり後戻りしたりするかもしれませんが、それは自然なこと。
大切なのはそんなときでも正しい方法を思い出せるかどうかです。
サティを働かせ続けていれば「わたし」を抜ける瞬間が必ずやってきます。
【記事07に続く】
草薙龍瞬著『こころを洗う技術 思考がクリアになれば人生は思いのまま』
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