エックハルト・トール著『ニュー・アース』。
今回は3章の前半部分を要約しました。
本を読んだことない方でも理解できるような文章を心がけています。
前回の記事はこちらです。『ニューアース』ちょっとずつ要約 #03
エゴの構造
心の活動というのは、しつこく反復される思考や感情、反応のパターンでできています。
そのパターンがエゴそのものです。
あなたが「私」と言うとき、ほとんどの場合はエゴが言っているのであって、あなた自身ではありません。
エゴの中身は人それぞれだけど、根底にあるものはどれも同じです。どのエゴも「同一化」と「分離」によって生きながらえています。
エゴが自身を支えるためには「他者」が必要です。とりわけ他者を「敵」とみなしたとき、エゴは確かな存在となります。
他者を批判したり非難したりすることで、あたかも自分が優れているように感じるのです。
不満と恨み
「不満」とは、自分の心が創り出し、信じ込んでいる物語(フィクション)です。
他人に対する不満が、無意識のうちに習性となっています。
悪口を言うことで他人にラベルを貼り、エゴは「自分は正しいんだ」と思い満足するのです。
ちなみに悪口より無意識のレベルが下がったところに「怒鳴り、わめき」があり、そのずっと下に「物理的な暴力」があります。
「恨み」は不満に不随する感情で、エゴはそこからまたエネルギーをもらいます。
エゴは他人が自分にしてきたことや、しなかったことといった「過ち」を恨みます。
それら「過ち」は、実際はありもしない妄想かもしれません。
また他人のなかに見て反応してしまうことは、自分のなかにもしっかりと存在しています。
他者のエゴに反応しないことは、自分自身のエゴを乗り越える手段となります。
「反応しない」とは「ゆるす」ことです。ゆるすことで相手の正気の意識を引き出せる場合もあります。
エゴの最大の敵は、いまのこの瞬間、いわば生命そのものなのです。
何かに不満をもったとき、頭のなかの声に気づけるかどうかを試してほしい。
もし気づけたら、「声」の正体はエゴで、気づいたのが「ほんとうの自分」であることがわかるでしょう。
気づかれたエゴはもうエゴではなくなり、ただの「古い条件づけられた心のパターン」となります。
無意識であるエゴは、気づきとは共存できないのです。
反応と怨恨
「不満」にさらにエネルギーが充填されると「拒否反応」となります。
あれこれに拒否反応することで、エゴは自己意識を強化しようとするのです。
また根の深い恨みは「怨恨」に変わります。
怨恨を抱き続けていると、起こっている出来事に対する見方が歪んだり、目の前の人間に対する話し方や行動に影響がおよびます。
自分が怨恨を抱いているかを見極めるには、正直にならなければなりません。
「怨恨」と「怨恨を生かし続けている思考」に気づき、思考の結果である「感情」をしっかりと感じることです。
あなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力があるのは「過去そのもの」ではありません。
力があるのは、過去に対して抱く古い考えと感情、つまりは怨恨です。
正しいか、間違っているか
「自分が正しい」という思いほど、エゴを強化するものはありません。
だからエゴは自分が正しいと思うためには、誰かが間違っていると喜んで決めつけます。
間違っているのは人だけでなく、状況も対象になります。
エゴは優越感を欲し、優越感を通じて自らを強化するのです。
幻想の防衛
例えば「光は音よりも速い」というのは、疑いようのない事実です。
事実だと知っていることを淡々と述べるのであれば、エゴは介入していません。
そこに「私の言うことを信じなさい」と言ったりすれば、もうエゴが入り込んでいます。
エゴは「見解や視点」を事実と混同します。
思考ではなく「気づき」によってのみ、事実と見解の違いを見分けることができます。
「気づき」を通せば、限られた一つの見方から解放されて、状況や人の全体が見えてくるのです。
真実:相対的か絶対的か?
「正しいのは私で、あなたは間違っている」
という確信は危険です。個人の人間関係においても、国家や民族、宗教同士の関係においてもそうです。
「真理」は自分たちの側にのみ存在するという信念は、行動やふるまいを狂気のレベルにまで堕落させます。
その「真理」とは信じるべき物語、つまりは「思考の塊」にすぎません。
狂気の例としてキリスト教の歴史が挙げられます。教義の解釈に対し、少しでも違う意見を持つ人々がたくさん犠牲になってきました。
またカンボジアの独裁者ポル・ポトにとってはマルクス主義が絶対的真理で、その秩序に沿って100万人が殺されました。メガネをかけている人は教養のある階級とみなされ、全員が殺される対象だったと言われています。
教義や規則、物語などは「思考」からできあがっているものなので、それらのなかに絶対的真理を探しても見つかりません。
思考は真理を指し示すことはあっても、真理そのものではないからです。
仏教では「月をさす指は月ではない」と表現します。
宗教は盲信するものではなく役立てるものです。うまく活用すればスピリチュアルな目覚めへの助けとなります。
絶対的な「真理」を見出すことができれば、あなたの行動はすべて真理に沿ったものになります。
「真理」とは、あなたという「存在」そのものです。
すべての生きとし生けるものとの一体感を感じる、これが本来の状態であり「愛」なのです。
(次回に続く)
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