『反応しない練習』で有名な草薙龍瞬さんの本を、本人の朗読版で聴いたので紹介していきます。
タイトルだけ見てみると、ブッダの伝記が中心なのかなと思ったけれど、ブッダ自身についての話はごく一部で、ほとんどは現代を生きる僕たちの家族間をめぐる問題に寄り添う内容でした。
本書で登場する、龍瞬さんが実際に関わってきた家族のエピソードはかなり深刻なものが多くて、自分には当てはまらないと思う又は自分はそれほど酷くなかったと安心するかもしれません。
それでも、完璧な人間など存在しないし、誰でも親に対して何かしら不満はあるだろうし、嫌な思い出も多少残っているはずなので、本書で語られる家族との向き合い方を学べば、必ず何か役に立つと思います。
人の数だけ業がある
本書では一貫して業(ごう)について語られています。カルマとも呼ばれているものです。
業は一般的に前世から受け継がれてくるものと考えられることが多いけれど、より現実的に、自分が生まれてからの経験や記憶の蓄積というように考えればいいと思います。
「怒りの業」「無関心の業」など典型的な数種類の業から、それらがミックスもされるので、人の数だけ業があると考えてください。
自分の親も何かしらの業を持っていて、少なからず影響されながらその子どもは育っていきます。
過去に親から言われたことや、されたことの記憶のせいで、自覚がなくても今を生きるのが苦しくなっているのかもしれません。
親の業を理解することは、自分の心のクセを理解することにつながります。
なので自分の記憶を冷静に洗い出していけば今の苦しみからの解放につながるはずです。
家族の「べき論」は気にしない
龍瞬さんは「親に感謝しなさい」とか「もっと仲良くしなさい」とかはまず言わないので、親子関係で悩んでいる人にとっては救いになるかもしれません。
変に相手を美化したりせずニュートラルに見ること、これが親子に始まるあらゆる人間関係においての正解です。
家族の絆を大切にすべき、できるだけ一緒にいるべきだという正論を聞かされ、自分はそれができていないと罪悪感を抱く人が多いのですが、その罪悪感は必要ありません。
無理にそばにいる必要はなくて、物理的にも心理的にも適度な距離感を保つほうがいいのです。
業というのは根深く、人の性格は普通は変わらないので、「そういう人なんだ」と割り切り、良い意味での諦めの態度で相手に接しましょう。
自己否定の思いを打ち消す
たとえ親に悪気がなかったとしても、僕たちはいろいろな考えを親に刷り込まれながら成長していきます。
数々の判断を強いられることになるので、知らないうちに自分の中で不満や怒りが蓄積され、大人になってから鬱などの精神病として表れることも。
病気ってほどじゃなくても、生きている実感が持てなかったり、自己否定の念にとらわれたりしている人は少なくないはずです。
今からできる対策としては、自動再生してくるネガティブな心の声に根気強くストップをかけることです。
反応するのではなくただ理解するのがコツで、たとえば「お前はダメだ」と言ってくる心に対し「そー思ってるんだね。でも、別にダメじゃないよ」と繰り返す感じです。
自己否定も単なる判断にすぎないとみなし、肯定的な言葉で少しずつ中和していくのです。
求める愛と、状態としての愛
仏教では「愛」を、他人から求める愛と、自分の心が自由でいられる状態としての愛とに分けて考えます。
前者の「求める愛」は相手が必要となり、苦しみを生み出すものなので、原始仏教の場合ストイックに否定するものの、現実を生きる上ではそういう愛も必要かもしれません。
それでも、求めることを手放すことで、自分で自分を幸せな状態にできるというのは、知識として知っているだけでも希望が持てると思います。
人間関係を始めとしたあらゆる物事をニュートラルにとらえ、正しい理解にたどり着くことは、これまでの悩みを全部チャラにする可能性を秘めているのです。
終わりに
以上、オーディブルで龍瞬さんの朗読を聴き、断片的にとったメモと記憶をもとにこの記事を書いてきました。
今回紹介してきたのは本書のごく一部にすぎないので、実際に本書を読めば業についての理解も深まり、人との関わり方や自分が生きる上での良いヒントになると思います。
いろいろと行き詰まっている人におすすめしたい一冊です。
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