古賀史健著『文章講義』要約#15 大きなウソはよいが、小さなウソはいけない

読書

20歳の自分に受けさせたい文章講義

前回の記事からの続きです。

あえて回り道を入れることの大切さを説明しましたが、その具体的な方法のひとつが「反論」の形にすることです。

自分の主張にツッコミを入れ、自分で答えていくことで、読者に納得してもらいます。

また、フィクションの世界でもよく語られる「大きなウソは許されるが、小さなウソは許されたい」ことについて詳しく説明します。

これは読者としての自分にも身に覚えがありすぎるので、本書の中でも特に勉強になった部分です。

自分の文章にツッコミを入れる

何か自分の主張や仮説を示したあと、それに対し自分で反論を入れるようにします。

「自作自演してどうするの?」と思うかもしれません。(こんな感じ)

でもこのような回り道をすることで、読者と対話する形になります。

逆に、何のツッコミどころのないような文章は、面白くもない一般論を述べているだけの可能性があります。

しっかりとした主張には必ず反論が出るし、それに答えることが有意義な対話になるのです。

反論・再反論の展開で、文章を強くする

初歩的なツッコミでもいいので、それに答えていくだけで読者の疑いの気持ちは晴れていきます。

反論(ツッコミ)に対する再反論というのは、たとえば以下のような流れです。

  • 高校では日本史を必修にすべき(主張)
  • 世界史のほうがいいのではと思うかもしれない(反論)
  • しかし自国の歴史や文化を語れるようになるべきだ(再反論)

このような展開にしていくことは、読者に対する「優しさ」に見えるかもかもしれません。

しかし同時に文章の「強さ」も育っていくわけです。

なお、反論・再反論の展開を使わない場合、あらかじめ反論を封じるような予防線を張るという手もあります。

大きなウソと小さなウソ

これはもう、そういうものなんだと思って欲しいのですが、読者は「大きなウソは許せるが、小さなウソは許せない」という性質を持っています。

著者の例で説明すると、以下の通り。

①街にゴジラが襲来した(大きなウソ)、これは許せる。

②ゴジラには自衛隊の兵器が通用しない(中くらいのウソ)、まあ規格外の生物なんだなと、これも許せる。

③主人公が公衆電話で家族の安否確認をする(小さなウソ)、こういうのが許せない。

なんで街が破壊されてんのに電話線が生きてるんだよ、ていうかさっさと逃げろよ、と言いたくなります。

そして物語のリアリティが一気になくなってしまうのです。

細かい部分こそミスってはいけない

ちなみに「小さなウソが許せない」ことについて僕が思い出したエピソードを紹介します。

漫画『キングダム』に学ぶ処世術という感じのビジネス書を本屋で見つけ、立ち読みしてみました。

そしたら、最初のほうで引用されていたキングダムのストーリー展開が、順番を間違えて書かれていたのです。

僕は著者が真剣に漫画を読んだのかを疑い出し、編集者も気づかなかったのか、などといろいろ信用できなくなりました。

こうして続きを読む気にもなれず、そっと本棚に戻したという話です。

だから、物事は細かい部分であるほど手を抜けないのです。

自分がわかったことだけを書く

細部をどれだけ大事にできるかは、文章を書く上でとても重要です。

これはフィクションだけでなく、もちろん日常文でも同じことです。

ではなぜ僕たちは「小さなウソ」をついてしまうのか。

その理由のひとつが「書こうとする対象への理解が足りないから」です。

著者の古賀氏は、自身の経験から「自分の頭でわかったこと以外は書いてはいけない」ということに気づいた、といいます。

数学の問題の場合、答えだけでなく解き方を知らないと意味がありません。

同じように、文章の目的も「ゴールまでの道のり」を示すものなのです。

60理解できたのなら60の範囲で

だから、たとえ100の話を聞いた、自分の理解が60なら、その60の範囲で書けばいいのです。

そこで無理をすると「誤訳」につながり、書く文章に「小さなウソ」が混じって台なしになります。

「自分のわかる範囲で書く」というルールを徹底すれば、わかりやすい文章にもつながっていくはずです。

記事16に続く

20歳の自分に受けさせたい文章講義

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