『超訳般若心経』まとめ・要約その3

瞑想

境野勝悟著『超訳 般若心経』。

前回の記事からの続きです。

般若心経ってただ唱えるだけでもなんとなく落ち着くけれど、意味を知っているとなお良い感じがします。

無眼耳鼻舌身意

「無眼・無耳・無鼻・無舌・無身・無意」をひとまとめにした言葉です。

「無」という言葉は全否定ではなく「あってないようなもの」というニュアンスです。

ものを目で見て浮かぶ考えや感情は絶対ではない、というのが「無眼」。

見えるものも軽く受け止めて流すくらいでよいのです。

鐘の音など、同じ「ゴォ〜ン」でも、それを聞いた人の境遇で印象が変わるというのが「無耳」。

「無鼻」つまり鼻から入ってくる香りについても同じことがいえます。

舌なども鏡なしに見ることは難しいですが、なかったら食べ物を味わえないし、しゃべれません。

見えないものもしっかりとあるがままを見つめるのが般若の知恵です。

仏教では生命を構成するのに「地・水・火・風・空」の要素が働いていると考えます。

根本的な生命の在り方に感謝しましょう。

人間には幸か不幸か言語能力や記憶力があり、それらで「いい」「悪い」を判断することを「意」といいます。

「無意」を意識することで、他人や世間と調和がとれます。

無色声香味触法

「無色・無声・無香・無味・無触・無法」をひとつにした言葉です。

声、例えば「バカ」と言われたときにその意味を考えたりするから腹が立ったり感情を動かされたりするわけです。

「バカ」という音声そのものには何の意味もありません。

「無」をゼロから無限だと考えると、香りや味というものもはかりしれないものです。

小さい子の手をにぎったときや、抱きしめたときの感覚も、理屈で語れるものではありません。

「無法」は自己中心的な考えを捨ててみましょうということ。

なんでも自分の思い通りにしたいという気持ちは悩みや苦しみを生みます。

エゴを無くすことで自然と心が安らぐ「法」、般若の知恵が湧いてきます。

無限界、乃至無意識界

例えば雑草が咲かせる花もよく見れば綺麗だったり。

この「よく見れば」というのが世間の価値を超越した「無」の見方です。

「無限界」とはいつも見ている自然界です。

自然界は人が頭で考えるようなややこしさもない「無意識界」でもあります。

人間の考えを中心にしていると世界がうまくまわらなくなります。

無無明、亦無無明尽

「無明」とは心の中がモヤモヤして先が見えない状態。

ずっと平和に生きたい、とか変化せずにいたい、という叶わない願いが無明を生みます。

「すべては変わるものなんだ」と受け入れてしまえば心のモヤモヤは無くなります。

またモヤモヤ、苦しみが完全に尽きることを期待してもいけません。

次から次へとやってくる悩みには、善悪を超越した般若の知恵で対応しましょう。

無老死、亦無老死尽

「100才まで生きるにはどうしたらいいか」に対する良い答えは「今日が100才だと思え」です。

年を忘れれば毎日を情熱的に生きることができます。

「死」がいつやってくるのかというのも自然にまかせておくしかありません。

心配せずに、いま生きているということを楽しみましょう。

「無老死尽」とは、どんな人でも必ず老いるし、死ぬ運命にあるということ。

どうにかなることもあれば、どうにもならないこともあるのです。

無苦集滅道

自分の記憶している観念にしばられ、他人の善悪を決める人はどんどん「苦を集め」ます。

自分の考えが絶対正しいと思うとその人の成長はストップします。

考えというのは固定したものではなく、日に日に更新していくものです。

自分の考えというものを滅却し、相手の考えをあるがままに理解するようにしましょう。

無智亦無得

自分の「思い」や「考え」が強すぎると、思い通りにいかないときの落ち込みが大きくなります。

「無智」になる、つまり自分の思考や判断をなくしたほうが前進できます。

何かをゲットする、得ることを目的にしてはいけません。

そのときどきに自分の能力を発揮するのが大切で、自然の結果として何かが手に入るのです。

次の記事に続く

境野勝悟著『超訳 般若心経

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