前回の記事からの続きです。
あえて回り道を入れることの大切さを説明しましたが、その具体的な方法のひとつが「反論」の形にすることです。
自分の主張にツッコミを入れ、自分で答えていくことで、読者に納得してもらいます。
また、フィクションの世界でもよく語られる「大きなウソは許されるが、小さなウソは許されたい」ことについて詳しく説明します。
これは読者としての自分にも身に覚えがありすぎるので、本書の中でも特に勉強になった部分です。
自分の文章にツッコミを入れる
何か自分の主張や仮説を示したあと、それに対し自分で反論を入れるようにします。
「自作自演してどうするの?」と思うかもしれません。(こんな感じ)
でもこのような回り道をすることで、読者と対話する形になります。
逆に、何のツッコミどころのないような文章は、面白くもない一般論を述べているだけの可能性があります。
しっかりとした主張には必ず反論が出るし、それに答えることが有意義な対話になるのです。
反論・再反論の展開で、文章を強くする
初歩的なツッコミでもいいので、それに答えていくだけで読者の疑いの気持ちは晴れていきます。
反論(ツッコミ)に対する再反論というのは、たとえば以下のような流れです。
- 高校では日本史を必修にすべき(主張)
- 世界史のほうがいいのではと思うかもしれない(反論)
- しかし自国の歴史や文化を語れるようになるべきだ(再反論)
このような展開にしていくことは、読者に対する「優しさ」に見えるかもかもしれません。
しかし同時に文章の「強さ」も育っていくわけです。
なお、反論・再反論の展開を使わない場合、あらかじめ反論を封じるような予防線を張るという手もあります。
大きなウソと小さなウソ
これはもう、そういうものなんだと思って欲しいのですが、読者は「大きなウソは許せるが、小さなウソは許せない」という性質を持っています。
著者の例で説明すると、以下の通り。
①街にゴジラが襲来した(大きなウソ)、これは許せる。
②ゴジラには自衛隊の兵器が通用しない(中くらいのウソ)、まあ規格外の生物なんだなと、これも許せる。
③主人公が公衆電話で家族の安否確認をする(小さなウソ)、こういうのが許せない。
なんで街が破壊されてんのに電話線が生きてるんだよ、ていうかさっさと逃げろよ、と言いたくなります。
そして物語のリアリティが一気になくなってしまうのです。
細かい部分こそミスってはいけない
ちなみに「小さなウソが許せない」ことについて僕が思い出したエピソードを紹介します。
漫画『キングダム』に学ぶ処世術という感じのビジネス書を本屋で見つけ、立ち読みしてみました。
そしたら、最初のほうで引用されていたキングダムのストーリー展開が、順番を間違えて書かれていたのです。
僕は著者が真剣に漫画を読んだのかを疑い出し、編集者も気づかなかったのか、などといろいろ信用できなくなりました。
こうして続きを読む気にもなれず、そっと本棚に戻したという話です。
だから、物事は細かい部分であるほど手を抜けないのです。
自分がわかったことだけを書く
細部をどれだけ大事にできるかは、文章を書く上でとても重要です。
これはフィクションだけでなく、もちろん日常文でも同じことです。
ではなぜ僕たちは「小さなウソ」をついてしまうのか。
その理由のひとつが「書こうとする対象への理解が足りないから」です。
著者の古賀氏は、自身の経験から「自分の頭でわかったこと以外は書いてはいけない」ということに気づいた、といいます。
数学の問題の場合、答えだけでなく解き方を知らないと意味がありません。
同じように、文章の目的も「ゴールまでの道のり」を示すものなのです。
60理解できたのなら60の範囲で
だから、たとえ100の話を聞いた、自分の理解が60なら、その60の範囲で書けばいいのです。
そこで無理をすると「誤訳」につながり、書く文章に「小さなウソ」が混じって台なしになります。
「自分のわかる範囲で書く」というルールを徹底すれば、わかりやすい文章にもつながっていくはずです。
【記事16に続く】
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