エックハルト・トール著『ニュー・アース』。
前回の記事では7章の8〜10節を要約しました。
今回は11〜14節です。「目覚める」「あるがまま」などがキーワードです。
時間を消去する
「エゴのない状態」を目標に努力することはできません。満たされない思いがつのるだけです。
エゴからの解放のために時間をかけるほど、エゴはさらに肥大していきます。
この時間とは「心が作り出した過去と未来」です。偽りの自己であるエゴにとっての生きる糧となります。
時間とは人生の水平軸、現実の表層です。でも人生には深さという垂直軸もあります。
垂直軸には現在という瞬間を入り口として近づけます。
なので自分に時間を与える代わりに、時間を取り除けばいいのです。これはエゴを消去することでもあり、真のスピリチュアルな実践だといえます。
ここでいう時間とは、物理的な時間ではなく、心理的な時間のことです。際限なく過去と未来に拘泥するエゴイスティックな心のことです。
不可避である現在の瞬間と調和し、生命と一体になればいいのです。
人生に言い続けてきたノーがイエスに変わるたび、あるがままのこの瞬間を受け入れるたびに、あなたは時間とエゴを解体します。
エゴに人生を支配されていると、望みがかなわないときに不幸を感じ、望みがかなっても不幸を感じます。
人生がこの瞬間にとっている形にいちいち反応し、「いま」を手段、障害、敵にしていると、エゴを強化することになります。
形に抵抗しなければ、あなたのなかの形を超えたものがすべてを包み込む「いまに在る」状態として現れます。
夢を見る人と夢
「無抵抗」は宇宙最大の力を開く鍵です。その力によって、意識(スピリット)が形から解放されて自由になります。
抵抗することで、世界とエゴに重みと重要性を与えてしまい、自分自身と世界を深刻に受けとめることになります。
起こっている多くの出来事は、もともとつかの間の儚いものでしかありません。
出来事や状況も、思考や感情も、重要そうなそぶりを見せますが、すべてはまた無へと消えていきます。
夢があり、夢を見る人がいます。
夢とはこの世界であり、相対的な現実であり、絶対的な現実ではありません。
いっぽう「夢を見る人」というのは、形が現れては去る場であり、絶対的な現実です。
夢見る人は個人ではなく、個人も夢の一部です。
夢のなかで目覚めること、それが私たちのいまの目的です。
目覚めることでもっと穏やかなすばらしい夢、すなわち「新しい地」が立ち現れるのです。
限界を超える
誰の人生にも、身体的な弱さや金銭的な乏しさなど、形のレベルでの限界を克服しようとする時期があります。
結果的に芸術作品、書物、またはサービスや機能となって現れるかもしれません。
あなたが「いまに在る」とき、関心が充分に「いま」に注がれているとき、その在り方があなたの行動に流れ込んで、変容をもたらします。
行為の遂行そのものが目的で、そこに喜びや活気を感じているなら、あなたは「いまに在る」状態です。
形は限界を意味します。私たちが地上に生を受けたのは、その限界を経験するためです。
さらに、意識のなかで限界を乗り越えて、成長するためでもあります。
人は限界にぶつかったとき、反応して激しく不幸を感じるか、あるがままを無条件で受け入れるかの、どちらか選択をせまられます。
あるがままを意識のなかで受け入れると、人生の垂直軸の次元、深さの次元が開かれます。
厳しい限界を受け入れた人々のなかには、ヒーラーやスピリチュアルな指導者になる人もいます。
著者トール氏がある日カフェテリアで昼食をとっていたとき、3〜4人の付き添いと一緒にいる車椅子の男性を見かけました。
彼は体がほとんど動かず、何をするにも誰かの助けが必要そうな状態です。
しかしあるときトール氏が彼と目が合ったとき、彼の目があまりに澄んでいることに驚きました。
彼はあるがままをすべて受け入れていたのです。
その車椅子の男性というのはスティーヴン・ホーキング教授で、のちに世界的な有名な理論物理学者として雑誌の表紙をかざります。
彼はインタビューで自分の人生について尋ねられたとき「これ以上、何を望めるだろう」と、(音声合成装置の助けを借りて)言いました。
生きる喜び
不幸やネガティブ性は、この地球上の病気です。
人の心のネガティブ性は、物質的に貧しい場所よりもむしろ、豊かな場所に多く見受けられます。
豊かな世界のほうが形にとらわれ、エゴの罠にはまっているからです。
幸福になれるかどうかは自分に起こる出来事しだいだと人は信じています。
しかし何が起こるかなどは、この宇宙で最もあてにならないことです。
真の幸福とは「生きる喜び」です。
生きる喜びは、起こる出来事を通じてもたらされることはあり得ません。
あなたのなかの形のない次元、意識そのものから放出されるものなのです。
(次の記事に続く)
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