エックハルト・トール著『ニュー・アース』。
前回の記事では7章の1〜3節までを要約しました。
今回は4節〜7節までです。7章は特に、どの文章も重要に見えて、要約が大変です。
自分自身を知ることと、自分自身について知ること
あなたに「ついて」知ったことと、「あなた」とは違います。
精神分析や自己省察を通じて知るのはすべて、あなたの心の中身であって、あなたの本質ではありません。
エゴを乗り越えるとは、中身から脱することです。
「自分自身を知る」とは「自分自身である」こと。
「自分自身である」とは心の中身と自分の同一化をやめることです。
中身とは自分の経験、行動、思考や感情のことで、それらは自分の本質ではありません。
中身の存在を可能にしているのが、意識という内なるスペースです。
混沌とより高い秩序
いろいろな出来事の「善悪」を区別していると、「総体」を断片的に把握する結果になります。
あらゆる出来事は、全体のなかであるべき場所と機能を有しています。
なのでものごとの表面だけを見ていてもわかりません。
「総体」は部分の総和以上のもの、あなたの人生や世界の中身以上のものだからです。
禅の言葉で「好雪片々として、別所に落ちず」というものがあります。
「舞い落ちるゆきのひとひらひとひらは、落ちるべきところに落ちている」という意味です。
一見偶然のような出来事の連なりの奥には、より高い秩序や目的が隠されているいうことです。
これは頭で考えても理解できることではありせん。
秩序は形のない意識の領域、普遍的な知性から生じているからです。
思考する心にとっては、原始の森よりも造成された公園のほうが理解しやすく、心地よいものです。
思考を放棄し、静かに観察すれば、森の聖性を感じ取ることができるでしょう。
隠された調和と聖性を感じ取れれば、自分もその一部だとわかります。
そこに気づけば、あなたはその調和の意識的な参画者になれるのです。
善と悪と
私たちはものごとに善と悪、秩序と無秩序というレッテルを貼ります。
人々の人生の「意義」は、ふつう「善」とみなされるものと関連づけられます。
しかしこの「善」なるものは、つねに崩壊、破壊、無秩序の脅威にさらされています。
誰の人生にも遅かれ早かれ、無秩序が忍び入ってくることは免れません。
でも無秩序に侵され、人生の精神的な意義が崩壊したとき、それがより高い秩序への入り口になることもあり得ます。
思考に頼りすぎると現実は断片化してしまいます。
そして、この断片化したものを現実だと思い込みます。
しかし宇宙とは分断できない総体なので、すべてがつながりあっていて、独立して存在するものは何もありません。
すべてのものごとは深く関連しあっているので、善と悪という区別は、結局のところ幻想にすぎません。
以下はくじ引きで高級車が当たった男の話です。
みんなから「すごいじゃないか!」と言われても彼は「そうかもしれない」と答えました。
高級車を運転していた彼は事故にまきこまれ重傷を負い、「不運だったね」と言われても彼は「そうかもしれない」。
入院中に彼の自宅が地すべりによって海に流されて、「入院中でよかったね」と言われて、彼はまた「そうかもしらない」と答えます。
以上が、起こった出来事を判断しない賢者の話です。
彼は判断する代わりに、事実を受け入れることで、より高い秩序に意識的に参画しています。
どんな小さな出来事も、無限の因果関係のなかで、思いもよらない方法で総体と関わっているのです。
何が起ころうと気にしない
J・クリシュナムルティはインドの偉大な哲学者、霊的指導者です。
あるとき彼は聴衆に「私の秘密を知りたいですか?」と問いかけました。
そして彼は言いました。「私は何が起ころうと気にしない」
これは、自分の内面は起こった出来事と調和している、という意味です。
起こった出来事との関係に心のなかで抵抗せずにいるということです。
あるがままに受け入れるということは、行動も何もしないことは違います。
いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働くのです。
(次の記事に続く)
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