中村天風著『運命を拓く 天風瞑想録』
伝説の人、中村天風氏の本を数記事に渡って要約していきます。
インドの山奥でヨガの修行をしてきたという天風氏ですが、そこまでの経緯は並の小説よりもすごいです。
(僕も最初読んだときは、この人マジかよって思いました)
そんな天風氏の講演録の中で一番売れている(と思う)本書を紹介します。
一言一言に魂がこもっているように思える素敵な本です。
天風氏の経歴
後の天風である中村三郎氏は1876年、九州の名家に生まれました。
身体的にも頭脳的にも俊敏で気性の激しい性格で、中学生の頃は包丁を持った相手と喧嘩し、包丁は相手に刺さり死亡し、三郎氏は正当防衛で釈放になったとか。
しかしながら学校は大学となり、父親の知り合いであり頭山満氏の元に預けられ、三郎氏は彼を師と仰ぎます。
そして17才の頃、陸軍中佐とともに中国の視察旅行(スパイ活動)に行きます。
軍事探偵としての訓練を受けた三郎氏はその後も、日露戦争(1904〜1905年)が終わるまで活躍します。
結核に悩まされる
その頃から三郎氏は咳をして血を吐くようになり、結核と診断されます。
当時の肺結核は治療法も確立されておらず、死に至る病として知られていました。
キリスト教の牧師が来ても「ただ祈れ」というだけだったし、著名な禅の指導者がやって来たと思えば「肺病やみはお前か。馬鹿め!」と言って帰っていったとのこと。
「著名な指導者といわれる人には、理論も方法も愛もないじゃないか」
三郎氏がのちに天風氏となり、「心身統一法」を確立した背景には、このような病めるものとしての体験があったからでしょう。
いろんな国に渡航して学ぶ
自分の病気を治すため、三郎氏は海外へ渡ります。
最初はアメリカで、香港の華僑の人の替え玉としてコロンビア大学にて医学を学びます。
しかしながら彼の結核は治らず、次に行った国はイギリスのロンドン。
神経療法の権威である先生が言う「病を治す秘訣」とは「病を忘れよ」でした。
三郎氏はその先生に「忘れたくても忘れられないから困ってるんだ」と詰め寄ったそうです。
「How to say は易し。されどHow to do がなければ人は救えない」ということだけを学べたのでした。
友人の勧めで次に三郎氏が行ったのはフランス。
サラ・ベルナールという有名な女優の元にしばらく厄介になります。
彼女が年の割に相当若く見える秘訣は「笑顔」でした。
三郎氏はこれまで笑いというものを軽視していたのですが、これからは「笑いのある人生」を願うようになります。
やっぱり治らず日本に帰りたくなる
最後の望みとして、ドイツの著名な哲学者ドリーシュに話を聞きにいくも、三郎氏にとって納得のいく答えは得られませんでした。
失望した三郎氏は無性に母親に会いたくなり、日本に帰る決断をします。
客船が出るのが待てなかった彼は貨物船に乗るわけですが、ここからまた運命は面白い方向に向かいます。
貨物船は都合によりエジプトのアレクサンドリア港に数日間待機することになります。
その間でフィリピン人の男と仲良くなりピラミッドでも見に行こうとなりますが、予定の朝に三郎氏は血を吐いて倒れました。
何か食べなければとふらつきながら食堂に行くと、60才くらいの浅黒い老人がいて、話しかけられます。
ヨガ聖者との出会い
その不思議な人は三郎氏に英語でこう言います。
「お前は胸に疾患があるが、お前は死ぬ必要はない。助かりたかったら私に着いてきなさい」
三郎氏はイエスと即答しますが、フィリピン人の友人に「あの男は奴隷買いだ。売り飛ばされるぞ」と泣いて止められます。
しかし三郎氏は「どっちにしろインド洋あたりで死ぬ命だ。好きなようにさせてくれ」と彼を振り切り、老人について行くのでした。
その人はヨガの聖者カリアッパ師で、イギリスの国王に会ってきた帰り道に三郎氏とめぐりあったわけです。
ヒマラヤで修行する
三郎氏を連れた一行は3ヶ月後、ヒマラヤのふもとの村に到着します。
ヨガは「結びつける」という意味で、ヨガ哲学では宇宙と人間との冥合を意味します。
三郎氏は師の元でヨガ修行を続け、ある日「わが生命は、大宇宙の生命と通じている」と直感します。
宇宙には目的があり、その方向性と法則性の中に、人間は生きねばならない。
ここに哲人天風が誕生するわけです。
彼を悩ませていた結核もいつの間にか治っていました。
終わりに
その後帰国した天風氏は50年間にわたり、多くの人を救い導いていきました。
この本に書かれていることは、天風氏が命がけで把握した哲理です。
天風氏の経歴はさらっと流すつもりが、あまりに面白いので記事1つぶんになりました。
このペースだと完結までに何記事になるかわかりませんが、今後もマイペースに要約していきます。
(次の記事に続く)
中村天風著『運命を拓く 天風瞑想録』
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