エックハルト・トール著『ニュー・アース』。
前回の記事では7章の4〜7節を要約しました。
今回は8節〜10節です。あるがままのいまを受け入れることについてなど。
「ほう、そうか?」
日本の白隠禅師のエピソードになります。
あるとき寺の隣の10代の娘が妊娠して、両親に子どもの父親は誰かと問い詰められたので、娘は白隠禅師だと答えます。
両親は白隠禅師のもとに怒鳴り込んだけど、白隠は「ほう、そうか?」と答えただけでした。
噂は近隣の地域にまだ広がり、禅師の評判は下がり、誰も説法を聞きに来なくなっても彼は気にしません。
赤ん坊が生まれると、娘の両親は禅師のもとに連れて行き「お前が面倒を見ろ」と言い、それに対しても禅師は「ほう、そうか?」。
そして禅師は赤ん坊を慈しみ、世話をしているうちに1年経ち、娘がとうとう白状するには、子どものほんとうの父親は近所で働く若者だということです。
両親は慌てて禅師のもとに駆けつけ「ほんとうにすみませんでした。赤ん坊を引き取らせてもらいます」と言い、禅師の答えは「ほう、そうか?」。
以上、白隠禅師は悪い知らせにも良い知らせにもまったく同じ対応をしたという話です。
禅師はつねに「いま」という瞬間に求められたことをしていました。
もしエゴが反応していたら、赤ちゃんがどうなっていたかわかりません。
エゴと「いま」という瞬間
エゴとは「現在という時との関係の機能不全」であるとも定義できます。
あなたが現在という時とどのような関係でいたいかを決められるのは、いまこの瞬間だけです。
いまという瞬間を友人にしようと決めたら、まずあなたが働きかけましょう。
そうすれば人生(生命)はあなたの友人として接してくれます。
人々は親切になり、状況は都合よく展開するようになります。
現在という瞬間を友人にしようという決断は、エゴの終わりを意味します。
エゴは時間のなかで生きているので、エゴが強ければ強いほど、人生は時間に支配されます。
恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを示しています。
現在という瞬間に対するエゴの対応は3つあります。
目的のための手段として対応する、障害として対応する、敵として対応する、の3つです。
どの対応もまったく珍しくなく、どれも「あるがままのいま」に対抗しています。
「私は現在という瞬間とどんな関係にあるだろう?」と、始終自分に問いかけることが大切です。
この問いは、エゴの仮面をはいで「いまに在る」状態を取り戻すのにとても役に立ちます。
いちばん大事なのは、自分の思考や行動に機能不全があると見極めることです。
事実を見極めることで「いまに在る」状態が立ち上がります。
機能不全は見抜かれた瞬間に解体し始めるのです。
「いま」にイエスと言い、友人にするという選択をしましょう。
時間のパラドックス
時間は終わりのない瞬間の連続で、「良い」瞬間も「悪い」瞬間もあると感じるでしょう。
でもあるのは「この瞬間」だけです。人生とはつねに「いま」なのです。
過去や未来の瞬間も、あなたが思い出したり予想したりするときにしか存在しません。
つまりは、いまこの瞬間しかないのです。
たくさんの瞬間があるように思うのは、「現在という瞬間」を「起こっていること」と混同しているからです。
この混同により「時間」という幻想と「エゴ」という幻想が生まれます。
いっぽうで、時間という現実を否定できないところに、時間のパラドックスがあります。
何をするにも時間がかかります。このブログを読むのにも時間が必要です。
トール氏の体験談によると、長年ご無沙汰だった友人一家が、すっかり変貌してしまったことに驚いたそうです。
結局、最後に会ってから30年の月日が経っていたのが理由ですが、これはシェークスピアの言葉「残酷な暴君という時間」を表す例といえます。
すべては時間の影響を受けずにはいませんが、すべては「いま」起こります。これが時間のパラドックスです。
経験できるのは現在という瞬間、あるいはその瞬間に起こることだけです。
(次の記事に続く)
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