前回の記事では4章の前半部分、今回は4章の後半部分を要約しました。
あるがままの自分を生きられれば、安らかな気持ちでいられるということです。
役割を演じることをやめる
役割というアイデンティティを守ったり強化したりしないようにしましょう。
何をするにしても、ただ目的を達成するために行うとき、人はとても力強くなります。
ただ自分らしくある人たちは、際立った光彩を放っているし、こういう人たちだけが世界をほんとうに変えることができます。
どの分野の世界にもこういう人は存在します。
役割を演じていないとは、行動にエゴがでしゃばらないということです。結果、行動がはるかに大きな力を持ちます。
しかし「自分らしくあろう」という努力をしてはいけません。
心が介入してきて「どうすれば自分らしいだろう?」と言ってきます。
あなたはすでに自分自身なのだから「どうすれば」という言葉はふさわしくありません。
「自分が何者かわからなくてもぜんぜんかまわない」と思えたら、そのとき残っているのがあなたです。
自分自身を定義するのはやめましょう。他人があなたをどう定義するかも、あなたの問題ではありません。
人々とつきあうときは、意識的に「いまに在る」場として向き合いましょう。
エゴが役割を演じるのは、無意識の思考のせいです。
形のうえでは、あなたは誰かより劣り、誰かより優れているかもしれません。
でもあなたの本質は誰にも劣ってないし、優れてもいません。
それを認識したときに、真の自尊心と慎み深さが生まれます。
病的なエゴ
どんな形をとろうと、エゴはそれ自体が病的です。
エゴは自分で苦痛をつくり「私の苦痛はあなたのせいだ」と、いつも他人や外部要因のせいにします。
エゴは「状況それ自体」と「状況に対する解釈および反応」を区別できません。
シェークスピアの言葉を借りれば、「ものごと自体には良いも悪いもない。良いか悪いかは考え方ひとつ」なのです。
怒りや恨みは他者との分離意識を強めます。
そして「正義」という精神状態を生み出すので、エゴが大幅に強化されます。
ネガティブな状態になったとき、あなたのなかには必ずその状態を望む何者かがいます。
その状態を(実際は苦しいのに)喜びだと感じ、欲しいものを手に入れるために役立つと考える何者かです。
その存在に気づけたなら、あなたはまさにエゴに気づいたということになります。あなたのアイデンティティはエゴから「気づき」へとシフトしています。
「いまこの瞬間、私は自分で苦しみを創り出して自分を苦しめている」と気づきましょう。
するとどんな状況にも知的に対応できる可能性が開けます。
ネガティブな状態は知的ではなく、つねにエゴです。
エゴは小賢しいかもしれないが、知的ではありません。
小賢しさは自分や人々を分断し、知性はすべてを包み込みます。
そこはかとない不幸
エゴは分離を創り出し、分離は苦しみを創り出します。
ネガティブな状態には、憎悪などのわかりやすいものの他に、もっと微妙な状態があります。
ちょっとしたイライラやうんざりした状態がそうで、それらは「そこはかとない不幸」を生み出します。
気づくためにはすこぶる鋭敏で、絶対的に「いまに在る」必要があります。
しかしながら多くの人は、人生の大半を無意識に「そこはかとない不幸」のなかで過ごします。
無意識の思考の例は以下のようなものです。
「私が安らぎを得るには、あることが起こる必要がある。不満に思っていれば、そのうちそれが起こるかもしれない」
幸福の秘訣
安らかな気持ちでいられるのと、自分らしくいられるのは同じことです。
エゴは、あなたが安らかになれるチャンスはいましかないことを知りません。
いまという瞬間と仲直りしましょう。そうすれば、いま安らぎを得ることができます。
生命とひとつになること、これがすべての成功と幸福の秘訣で、いまという時とひとつになることです。
あるがままのこの瞬間に対抗するのも、エゴの特徴のひとつです。
エゴは無能なので、自分を認識できず、自分が何をしているのかもわかりません。
だからイエスは「彼らをおゆるしください。自分で何をしているかわかっていないのです」と言ったのです。
苦しみを終わらせるには、まず自分の内面の状態に責任をもつことから始めてください。いまこの瞬間からです。
自分のなかにネガティブな状態があると気づくのは、失敗ではなくむしろ成功です。
エゴからの解放のためにすることは「行動」ではなく「観察」です。
「思考」から「気づき」への変化が起こると、エゴの小賢しさよりも偉大な知性があなたの人生に働き始めます。
「気づき」によって、感情や思考さえも個人的なものではなくなります。
もうそこに「自己」はありません。
エゴの病的な形
妄想症という病気は、エゴの誇張された形です。
つきまとう不安を理屈づけるために、心が虚構の物語をつくりあげるのです。
他者への不信や相手の欠陥をあげつらうことに集中します。
サルトルの「地獄とは他者だ」という言葉はエゴの叫びです。
あなたのなかのエゴが強ければ強いほど、人生でぶつかる問題は誰か他人のせいだと思うはずです。
妄想症の人は、自分は多くの人から迫害される犠牲者だというように、自分が「特別な存在」だと思いたがります。
個人でも集団でも、無意識であればあるほど物理的能力に発展しやすくなります。
禅では「真理を求めるな。ただ思念を捨てよ」と言います。
これは「心との同一化を捨てなさい」という意味です。
心を自分だと思うのをやめれば、心を超えたあなた自身が姿を現します。
エゴがつきまとう仕事、つきまとわない仕事
例外的に優れた仕事をしている人たちは、仕事をしているときにエゴから解放されています。
自覚していなくても、こういう人たちの仕事はスピリチュアルな修行になっています。
彼らは仕事とひとつになり、「いま」とひとつになっています。
自分がしていることとひとつになれる人たちの影響は、仕事を超えて遠くまで広がるのです。
技術的には優秀なのに、エゴが仕事を邪魔している人たちも大勢います。
「認められたい」という思いがエネルギーを無駄遣いするのどす。
あるいは仕事が利益や権力を得るためだけの手段となっています。目的のための手段と化した仕事に、質の高さは望めません。
他人を包み込めば包み込むほどものごとは円滑に流れるのですが、エゴにはそのことがわかりません。
あなたが人を助けなかったり邪魔をしたりすると、宇宙はあなたを助けてくれません。あなたが自分を全体から切り離したからです。
成功を引き寄せるためには、誰の成功であっても歓迎するべきです。
病気とエゴ
病気はエゴを強くも弱くもします。
不満を言ったり自己憐憫にふけったりしていると、エゴは強くなります。
こういう人たちはエゴにエネルギーを使うため、病気の治癒に時間がかかります。
病気によって低下したエネルギーをエゴに費やさず、身体を癒すために使う人は、エゴが弱まります。
内面的な知力や充実感に触れて、智恵の言葉を語るようになるのです。
集団的なエゴ
エゴは不満足か自己から逃れるために、集団に自分を同一化することがあります。
エゴから解放されたように見えても、実際はエゴが個人から集団にシフトしただけかもしれません。
集団的なエゴはふつう、集団を形成する個人よりも無意識度が高いので、1人ならやらないような残虐行為でも平気でやったりします。
新しい意識が芽生えると、その意識を反映する集団をつくろうとする人がいます。そうしてできた集団は、集団的エゴではありません。
この集団は「新しい地」を生み出す新しい意識を芽生えさせるために、重要な役割を果たすでしょう。
不死の決定的な証拠
あなたは自分自身という観念的なイメージを抱いています。
生命そのものも概念化され、「私の生命」というように、あなた自身と別個のものとして捉えられています。
すると私と生命は別ものだということになるから、生命を失う可能性も出てくるので、死が現実の脅威になります。
言葉と概念が生命を、なんのリアリティもない二つの部分に分割しているのです。
でも仮に「私」と「生命」が別々に存在するとしたら、私はすべての存在とも別々です。
生命や「大いなる存在」と離れて「私」が存在することは不可能なのです。
だから「私の生命」などはなく、私と生命はひとつです。
私が生命そのものなのだから、失うことなどあり得ないのです。
(次の記事に続きます)
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