エックハルト・トール著『ニュー・アース』。
今回は第4章の前半部分を要約しました。
「役割」になりきってしまうのは良くないという話です。
前回の記事はこちらです。
どれもエゴである
エゴが求めているのは「いまに在る」という形のないものではなく、他者からの関心です。
他者からの承認や賛美といった、とにかく存在を認めてもらうという、形をもった関心を求めているのです。
内気な人は、他者の関心を求めつつも恐れるという、矛盾したエゴを抱えています。
「自分はこうだああだという思い」はポジティブだろうとネガティブだろうと、どれもエゴです。
誰かに優越感や劣等感を感じたなら、それはあなたのなかのエゴが感じています。
悪人、被害者、恋人
賞賛や賛美を得られなかった場合、エゴは逆に悪さをして関心を得ようとする場合もあります。
ネガティブな関心でもいいから自分の存在を認めてもらいたいのです。
だからエゴはアイデンティティの一部になった「問題」の終結を望みません。
エゴにとっては「自分に輪郭を与えてくれる何か」が大事なのです。
「恋に落ちる」というのはエゴイスティックな欲求からきているので、何も求めない真の愛とは無関係です。
自己の定義を捨てる
昔は階級制度などによって、人々に役割が振り当てられていました。
ブッダやイエスなどの稀な人物は、この無意味さを見抜いていました。
現代社会は昔ほど強固に人々の役割が決まっているわけではありません。
そのことからかえって「自分が何者なのかわからない」と混乱する人が増えました。
「自分とは何者かを知りたい」という思いを捨てましょう。
自分という意識の観念的な定義をやめるのです。そうすれば混乱は消えます。
自分にはわからないと素直に受け入れれば、かえって安らかですっきりした状態になります。
事前に決まっている役割
この世界で人々はそれぞれがさまざまな機能を果たしています。
人は役割になりきってしまうと、無意識になります。ほんとうに人間らしいつきあいもできなくなります。
「あ、役割を演じているな」と意識し、自分と役割に距離を置くことが、役割からの解放の始まりです。
1960年代にアメリカ西海岸からヒッピー・ムーブメントが広まりました。
これは既存の社会や経済構造、既成の行動パターンなどに対する若者たちの反発から生じています。
ヒッピー・ムーブメント自体は収束したけれど、東洋の古い知恵や霊性(スピリチュアリティ)が西洋世界に流れ込むきっかけとなりました。
一時的な役割
あなたが充分に目覚めていて、自分の人間関係を観察することができるとします。
すると、相手によって自分の言葉やふるまいが変化することに気づけるでしょう。
自分が既成の社会的な役割を演じていることに気づくのです。
あなた自身が相手とつきあっているのではなく「あなたが考えるあなたという人物」が「あなたが考える相手という人物」とつきあっています。
相手のほうも同じことです。
だから人間関係に多くの葛藤がつきまとうのです。
昔、ある禅僧が貴族の葬儀を執り行っていたとき、自分の両手が汗ばんでいるのに気づきました。
その翌日、彼は弟子たちを集め、
「自分はまだすべての人間に対して同じ姿勢で臨めていない」
と告白し、寺を去り、別の師匠のもとで8年間修行して悟りを開いたといいます。
役割としての幸せと、真の幸せ
多くの場合、幸福は演技であり、笑顔の奥には苦しみが隠されています。
まず自分のなかの不幸を認識する必要があります。
ただし「私は不幸だ」と言うのではなく「私のなかに不幸がある」と言いましょう。
「不幸」と「あなたそのもの」とは何の関わりもないからです。
そして「不幸」を観察しましょう。
不幸の原因は「状況」ではなく「その状況についてのあなたの思考」なのです。
状況はつねに中立だし、つねにあるがままです。
事実と直面すると、必ず力が湧いてきます。
思考と感情になりきるのではなく、それを後ろから観察して気づく存在になることです。
幸せは探しても見つかりません。
でも不幸からの解放なら、いま実現できます。
その方法が「物語をつくりあげず、事実と堂々とと向き合うこと」なのです。
親であること:役割か機能か?
おとなの大半は、人生のどこかで「親」という役割の一つを担います。
親と役割になりきってしまわず、その機能を充分に果たせるかどうかが大事です。
親であることがアイデンティティになってしまうと「親という機能」が過剰に強調され、自分を見失います。
そうなると子どもとの間に真の人間関係を築けなくなります。
無意識のうちに「子どもを通じて自分がもっと完璧になりたい」という気持ちが働くのです。
親が自分で気づけば、そのむなしさがわかり、無意識のパターンは自然に終わります。
誰かから指摘されても、エゴが頑なになるだけでしょう。
ちなみにあなたの心に浮かぶ考えのなかには、父親や母親に昔言われた否定的なことが混じっているかもしれません。
あなたのなかに「気づき」があれば「頭のなかの声」の正体は「過去に条件づけられた古い思考」だと認識できます。
「気づき」とは「いまに在る」ことを意味します。
「いまに在る」ことだけが、あなたのなかの無意識の過去を解体するのです。
意識的な苦しみ
親として、子どもが何の苦しみも経験しないように守ってあげられればすばらしいのかといえば、そうではありません。
苦しみが深みのある人間をつくるからです。
そもそもの苦しみの原因はエゴですが、結局は苦しみがエゴを破壊します。ただし苦しみに意識的でなければなりません。
「私は苦しむべきではない」という思考は、エゴの勘違いのひとつです。
苦しみにイエスと言い、意識的に受け入れることで、変容が起こり始めます。苦しみの火は意識の明かりとなるのです。
意識的な親
子どもは親に対し心の奥で、親という「役割」を演じるよりも「人間」であってほしいと願っています。
エゴは子どものために「行動する」ことによって解決すると信じています。
「いまに在る」ほうが大切だということを知らないのです。
子どもに「形のない関心」を注ぎましょう。
子どもの話を聞いたり、触れ合ったりするときには、その瞬間以外は何も望まないことです。
決して上の空にならず、穏やかに、完全にいまこのときだけを意識しましょう。
子どもを認める
人間とは形であり、「大いなる存在」には形がありません。
人間と「大いなる存在」は別々ではなく、不可分にからみあっています。
「人間の次元」では、あなたは子どもよりも上です。大きくて力もあり、知識も多いからです。
形を超えた「大いなる存在の次元」では、あなたと子どもは対等です。
愛するとは、他者に自分自身を認めることです。
「大いなる存在」を自分のなかに認め、子どものなかにも認めたとき、真の愛情が生まれるのです。
もちろん親子関係だけでなく、すべての人間関係に当てはまります。
愛によってこの世界は軽やかになり、透明になります。
(次回に続きます)
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